工房の東向こうに、小さな墓所がある。
どこの家の墓なのか、比較的小さな墓石が3坪ほどの敷地を囲むように、コノ字形に並んでいる。
苔むした墓石は、どれも多かれ少なかれ傾き加減で、角が欠けたりエッジが丸くなったりして、見るからに古そうな感じがする。今様の御影石みたいな堅くて艶のある墓石ではなく、黄土色の土を固めたような、どちらかというと柔らかそうな石でできているため、風化が進んだのかもしれない。
苔の中にある字を捜すと、「天保」とか「天明」とか読めるから、どうやら江戸時代の墓らしい。
ふだん人が手入れに来ているような様子はなく、墓地はたいてい雑草に覆われている。
それでも年に何回かは、おそらくお彼岸のころ、思い出したように草が刈り払われ、花がお供えしてあるところを見ると、子孫末代の墓守りがいるのだろう。
毎年秋になると、墓のまわりには彼岸花がいっぱい咲いて、いかにもお墓らしく体裁を整える。
その墓所の傍らの、付かず離れずのといった位置に、一体の石仏が、コノ字形に背を向けるように草の中に立っている。
ひざ丈ほどの小さなお地蔵さんで、ふっくらとした優しいお顔をしている。大きな蓮弁の形をした光背(というのかどうか)を背負って立つ姿が、何ともけなげで可愛らしい。
工房からは目と鼻の先の道路脇で、ここの前はしょっちゅう通っているはずなのに、石仏はあまり気にかけたことがない。視界にはあったのだろうが、気が付くというか、見つけたのは最近のことである。
背後にはシュロの木が、ちょうど日傘を差し出すように葉を広げ、その下で石仏は東向きに、朝日に向かって手を合わせている。
遠目には、後ろの墓石ほど風化が進んだ感じはしない。お顔もすごくきれいで、比較的新しいのではないかと思えた。
近づいて光背に刻まれた字を見ると、一部わからないところがあるものの、「早世○○童女」「享保三年九月」と読める。亡くなった子どもの供養に作られたのである。
そうだったのかと合点がいったのだが、遠いむかしのこととはいえ、早世童女の文字には胸が痛む。
あとで家に帰って調べてみると、享保3年は西暦でいうと1719年にあたり、いまから292年前ということになる。ちなみに天明は享保の70年ほど後、天保になると100年以上時代が下って、もう幕末に近い。お地蔵さんの方がずっと古かったのである。
そんな「発見」をしてからは、傍を通るたびに石仏をながめている。
300年ちかくの時間を経ると、石仏も作った当初の動機や目的から離れ、人の思惑を超えた自然物のような感がある。適切な言葉ではないが、いい具合に枯れて、おだやかな美しさをたたえているように思う。
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