家について考えている。
50も半ばにきて家を建てようと思うのだから、かなりなオクテである。また何をするにしろ理屈から入ろうとするところは、いかにもオクテにありがちな性分といえる。
いまや家の6割が、独り暮らしか二人住まいだという。
確かにまわりを見回してみても、夫婦ふたりか親子でふたりか、いずれにしても二人暮らしが目につく。独り身の友人もちらほらいる。
親、子、孫と3世代同居があたりまえだったのは、もう遠い昔のことになってしまった。そういう我が家も2年前に女房が亡くなってからは、娘と二人暮らしなのである。この先、高校生の娘が進学して家を出れば、独り暮らしはもうそこまできている。
車であれば、最初はお金がないから軽自動車でいいとか、結婚して子供ができたからワンボックスカーを買って旅行や里帰りしよう、やがて子供も独立して、夫婦二人きりになればコンパクトカーに乗り替える。そうやって家族構成や目的に合わせて買い替えができる。
家だって、家族構成が変われば、変わった方が使いやすいに決まっている。ただマンションなら売ったり買ったりも比較的容易かもしれないが、戸建の場合そう簡単ではない。そのまま我慢して住み続けるか、簡単なリフォームで済ませる人が圧倒的に多い。
友達で工務店をやっている相崎さんによると、「家の二階部分を取っ払ってもらえないか」という相談まであるという。子供が成長していなくなれば、二階に作った子供部屋は用がないということらしい。なるほどと思う。
歳をとると当然ながら、だんだん維持管理に手が回らなくなってくる。無駄に広いと掃除も大変だし、寒々しい。「もう二階に上がるのもおっくう」、となるころには行かずの間ばかりとなる。建て替えるにはすでに歳をとりすぎている。さてどうしたものか。今思えばうちの親も、寒い田舎家をさぞや持て余していたことだろう。
さてそんな二階の撤去などという大胆なリフォームができるのかどうか、相崎さんには聞かずじまいだったが、大きな家に年寄りだけというのも、ちょっとした悲劇なのである。
わたしと同世代の人に聞くと、たいていの人が「これから建てるのなら、家は小さくていい」と言う。みなさん自分の親の老後の暮らしを見て来ているので、実感としてそういう言葉が出てくるのだと思う。
相崎さんは「土地も狭くていいよ」、「どうせ歳をとったら草取りも出来ないんだから」とアドバイスしてくれる。
このあいだ友人と電話をしていて、独り暮らしをしている義父の話を聞かされた。90歳を越えた高齢でも、まだ身の回りのことは自分でなんとかやれているらしい。
遠く離れているのでしょっちゅうは見に行けないらしいのだが、たまに様子を見に行くと、立派なお庭が草ぼうぼうで、「ずいぶんすさんだ感じなの」だという。
「ずっと会社勤めをしていたので年金も使いきれないぐらいあるのに、人を頼んで草取りをしてもらうってことができないのよね」、「草取りはお金を払ってやってもらうことじゃないってことみたい」。「でも、何となく分かるわ」「そうなったら、自分もそうだと思うし」。
「まあそうかもしれないね」。わたしも頷いた。
と、ここまで書いて来て、ずっと感じていた、何だか足りないものがあるような、それでもコトを進めているような居心地の悪さ、その理由が分かった。言い訳がましいのではないか。
仮に、予算は十分にある。だけれど「小さい土地にコンパクトな家」に住みたい、ならわかる。説得力を持つ。
わたしの場合は、まず予算が乏しい。必然的に「小さい土地にコンパクトな家」になる。選択肢がないなかで「小さい土地にコンパクトな家」のほうがいいのだ、といっても抗弁というか強がりというか、負け惜しみにしか聞こえないのではないか。
遅まきながら気付いたのでこのへんでやめるとして、改めて思ったのだが、家について考えるというのは、自然と自分の将来について考えることなのだ。10年後、20年後、30年後の自分はどうなっているのか。
生きているのか、それとももうこの世にいないのか。独り暮らしなのか、同居人がいるのか。健康でいられるの?あるいは車いす生活?仕事はしているの?お金はあるの?趣味はある?車の運転は?買いたい物は?
定かならざることばかりだけれども、はっきりしているのは、歳をとると少しずつ体が衰えていくこと。当たり前にやれたことが、だんだん難しくなってくること。それに従えばやはり、「小さい土地にコンパクトな家」のほうが・・・。
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