前回、腰を痛めたと書いたら、幾人かの方からメールや電話でお見舞いの言葉をいただいいた。ご心配かけました。
このごろは痛みもほとんど感じなくなり、仕事も普通にやっている。
ただ完治したとも言えないのが腰痛の厄介なところ、背骨のつぶれた軟骨は相変らずそのままなのである。
朝、腰がだるくすっきりしない日もあるし、重いものを持つときは、まだちょっと怖い。
職人言葉でいうと、だましだまし上手に使っていくほかないようである。
最近はあちこちで家作りのことを聞かれるようになった。
何年かぶりに会った人が「いよいよ始まったね」なんて言うので、びっくりしたこともある。話が伝言ゲームのように伝わっていく。
「面白そうな家ですね。楽しみにしてます。」、「完成したら見せてください。」
そう声をかけられると、お世辞とわかっていても、うれしいものだ。
クリエイターのはしくれとしては、そうやってお声が掛るうちが華で、話題にも上らず、期待もされなくなったら、もう潮時ということだ。
建築はジャンル違いとはいえ、門前の小僧を長くやっている身である。何とかいい家にするつもりなのだが、ご期待に添えるかものができるかどうか。
ただ家造りもここまでくると、わたしが手を出せることや口を挟む場面はそう多くない。造るのは大工さんはじめ各種職人さんだし、全体を見てくれているのは施工をお願いしている相崎さんである。
壁の色を決めたり、ドアノブを選んだりぐらいはまだあると思うけど。
「家具は自分でばっちり作るんでしょ?」
家具屋のショールームみたいなイメージをお持ちになる人もいるようだが、実のところ自分の家の家具は、昔からあまり作らない。今の家にもあるにはあるが、試作品と展示品の残りが少しあるぐらいで、店で買ったモノも案外多い。
家人に頼まれてもなかなか手がつけられなくて、放っておくとそのうち忘れてしまう。
女房は頼んでも無駄だと思って、黙ってホームセンターに行き、棚の類をいくつか買ってきたことがあった。何度か期待を裏切ったあげくの実力行使だった。
一昨年、高校生になった娘にベッドが欲しいとねだられた時は、量販店に直行した。配達して、組み立てて設置までしてくれる。これは楽チンと思う自分がいた。
紺屋の白袴という言葉があるが、自家用に作る暇がないほど、年中忙しいというわけでもないのだが。
こういう人間もめずらしいと思っていたら、本の中で、ある著名建築家(安藤さんだったか隈さんだったか失念)の言葉に行き当った。
曰く、「自分の家にはまるで興味が湧かない。マンションでも長屋でも生活できればいいと思っている。」
そうだよね、おもわず膝を打った。
ウチのことだと何でやる気が起こらないのか、自分でもあれこれ考えるが、うまく説明ができないでいる。
言えることは、仕事じゃないとなかなかスイッチが入らないということ。
ところで、このごろふと感じることがある。
「体が勝手に仕事をしている。」
あまり考えなくても、自然に体が動いて加工をしている。考えるのは1割ぐらいで、9割方は体が勝手にやっている。同じ仕事を二十何年もやっていれば、体が覚えてしまうということはあるだろう。
ところがその一歩先を行って、体が仕事の段取りまで決めている気がするのである。
難しそうな仕事だとしばらく手をつけずにいたのが、時期になると急に取り組み始めることがある。それまで避けていたのに、どうしたもんだかと思う。
小物など、暇なとき作りためておけばいいのに、そういう時は体がだらけて仕事をしない。
頭でああしようこうしようとアイデアを思い付いても、体がいっこうに反応しなくて中途半端に終わってしまったり。
どうやら決定権は体にあるらしい。体が「ノン」と言えばそれまでで、わたしの意思ではどうにもならなくなってきている。
作りたい気持ちはあるのだが、作れないのはそういった事情もある。

北側
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