土曜日はすごく暑い日で、午前中仕事をしただけで、すっかりバテてしまった。
家に帰り、昼ごはんを食べると瞼が重くなってきた。最近毎日こんな感じで、昼過ぎに睡魔がやってくる。
扇風機の前に陣取ってゲームを始めた娘に、「ちょっと昼寝するわ」と言って寝床に転がった。
それからうつらうつら、いつもなら20分ほどで目が覚めるのに、時計を見たら1時間近く過ぎている。
それで少しは元気になったものの、まだ仕事に行く気にはなれない。何せ暑い。
昼寝の前に回しておいた洗濯物を取り出して干し、シーツを新たに洗濯機に放り込んだ。洗濯が終わるまで、数独(パズルの一種)を解きはじめる。最近これにはまっている。日に2問は挑戦する。
そんなことをしているうちに、夕方も5時近くなってしまったのだが、午前中始めた仕事のやり残しが気になってきた。あともう少しなのだから今日中に終わらせようと思い直し、相変らずゲームに熱中している娘に、「工房に行ってくるわ」と告げて家を出た。
1時間ほどで仕事を終え、スーパーで夕飯の買い物をして6時半ごろ帰ると、娘はまだ扇風機の前でゲーム中である。
娘は高三、世にいう受験生なのだが、これじゃまったく小学生と変わらないではないか、と親は心配する。でも自分もそうだったが、勉強したくない気持ちも分からなくはない。
ともかく学校が嫌いだった。
まず団体行動が性に合わない。通知表(むかしは通信簿といった)には協調性がないと書かれた。いま思うと大きなお世話である。
それと他人と競争するのがいや(いつから学校に競争というシステムが持ち込まれたのだろう)。それでも中学の時は勉強ができたのは、単に負けず嫌いだったからで、勉強が楽しいと思ったことなどなかった。
高校はいわゆる進学校だった。
進学校というのは、ナイーブな感性を持つ16、17の少年にとって、感覚のどこかを麻痺させておかないと居られない所だった。はやくそこから脱け出して、別の世界に行くことをいつも夢見ていた。
親と子は別だといっても、親が醸すそういう気分は、いつのまにか子にも伝染してしまうものだ。
遠い昔のはなしになる。
ぼくの高校の美術の先生はいわゆる非常勤講師で、授業のある日だけスクーターに乗って学校に来ていた。
当時は80近いお爺ちゃんだと思っていたが、いま考えてみればそんなにいってるはずもなく、60代後半ぐらいだったかもしれない。
どういう経歴の人かまったく知らないが、他の先生が、「あの人は本当はすごい人なんだ」と授業の合間に言っていた。案外、名のある絵描きさんだった可能性もある。
当時、一度だけ年賀状をいただいたことがある。
多色刷りの木版画で、静かな琵琶湖の風景が描かれていた。年賀状にしてはずいぶん凝っていて、その色数の多いことにびっくりした。素敵な絵だと思ったが、それが本来の先生の作風なのかどうか、その年賀状以外の作品を目にする機会は、後にも先にもなかった。
先生は週に2度ぐらいしか来なかった。一般の生徒はほとんど接点がないが、僕は美術部に在籍していたので、ときどき話をする機会があった。また先生に作品を褒められたこともあり、少しは目を掛けてもらっていたのかと思う。
先生は、本館とは別棟にある美術教室の控室を自分の居場所にしていた。
ご本人曰く「職員室が苦手」で、学校にいる間はたいていそこで独り過ごされた。絵描きさんらしく、自由な気質の人だったので、他の先生とはウマが合わなかったのだろう。
ある日、授業のあと何かの用事があって控室に先生を訪ねた。
二人だけで話をしていると、先生は木製の机の抽斗の奥の方から、銀の小ぶりな水筒を取り出した。それから中のものをぐぐっと喉に流し込んで、元の抽斗にしまい込んだ。ウイスキーらしかった。
「ちょっと風邪気味なもんでね。」と言い訳をされたのだが、その手際から、風邪気味じゃなくても普段から時々そうやっているのは、なんとなく想像がついた。
ぼくは黙って見ていた。ちょっと驚いたが、別に悪い気はしなかった。先生のとっておきの秘密をぼくだけに教えてもらったみたいで、嬉しくさえあった。
そのシーンを、少し霞が懸かってはいるけど、いまでもときどき思い出す。
ある窮屈さを感じている点で、先生とぼくは通じるものがあったかもしれない。そしてそういう大人がいることで救われることもある。
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