その初老の男は、3ケ月に一回が、あるいは半年に一度、ふらりと僕の仕事場に現れる。
わたしはその男が、どちらかといえば嫌いなのだが、そんなことはお構いなしに、定期的にやってくる。
引き戸がガラガラーと、勢いよく開いたとおもうと、コンニチワの声。
その「コンニチワ」のアクセントに特徴があるので、姿を見ずともその男とわかる。
行くと入口に愛想のない顔がぬぅっと立っていて、そして言うセリフはいつも決まっている。
「何かあるかい」
「あれば持って行ってやるよ」
男は、鉄くず回収に廻っていて、途中ウチにも寄るのである。
前に止めた軽トラックの荷台には、錆びたパイプや壊れた自転車だのが無造作に放り込んである。
うちは木工所だから、鉄くずなんかそうは出ないが、工房の中をさがせば少しは集まる。
切れなくなった鋸刃や空いた塗料缶、材木を縛ってあった帯鉄、針金やビス釘のたぐいまで集めれば、バケツ半分ぐらいにはなる。
「まあ、こんなぐらいしかないけど」と、いちおう恐縮するぼくに、言うことはいつも同じで、
「いいんだよ、いいんだよ。少しだっていいんだよ」
もちろんそれっぽっちなので、お金のやりとりはない。
こちらも不要なものが少し片付くので助かる、ともいえる。おたがいフィフティーフィフティーの関係。
だけど、オジさん、何か言い方が違うんじゃないかって、いつも思ってしまう。
一般論として、オジさんにとっては飯のタネの鉄くずを、たとえ茶碗一杯でも、提供してくれた人は、おじさんにとってはお客さんになるわけで、「やってあげてる」みたいな言い方は違うんじゃないか。
いや、ありがとうございますの一言があってもバチはあたらないと思う。
それはいまどき、子供でも分かりそうなことだけど、オジさんはこれまで、そんな常識というか世渡りの知恵と無縁に過ごしてきたのだろうか。
他人の下で働くとか、お勤めに出るとかすれば、当たり前に身に付くことだけど、そんな経験もなかったのだろうか。
お愛想でも、ありがとうございますってぺこりと頭を下げれば、家々からお呼びが掛かるかもしれないのに、なんて思うのだが。
まぁ大きなお世話かもしれないし、聞き流せばすむことなので、意見することもなく過ぎている。
ぼくが鉄くずを集めている間に、オジさんは工房を見回しながら独り言のようにいう。
「やっぱ木のニオイはいいねぇ」
「オレは木のニオイが大好きだ」
またこうも言う。
「手に職があるってのはいいねぇ」
そんなにいいことばかりじゃないけど。
ところで、オジさんの人生はどんなものだったのですか?
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