
琵琶湖のほとりで生まれ育ったせいか、ときどき水辺の風景が恋しくなる。
家の2階の自分の部屋からは、水辺の松林とその向こうに青く光る湖水が見えた。
毎日琵琶湖をながめて暮らしていた。ここ群馬県は山はいくらでもあるが、海が遠い。
ぼくが子供のころ、1960年代から70年代は地方の風景が劇的に変わる時代だった。
田中角栄の「日本列島改造論」が書かかれたころである。浅瀬や湿地が埋め立てられて工業用地になり、里山は削られて住宅団地が造られた。日本の風景は、あのあたりを境にがらりと様がわりしたといえる。
熱を帯びた重機が日本中を掘り返していた。大型土木工事が日本経済の推進エンジンだった。
ただ、そういった大きなプロジェクトはどれも、地元の要望というより国の計画立案だったので、中央のお役人が大した思慮もなく地図の上に落したようなものが多くかったのだろう。
テレビニュースでは連日、成田の空港反対闘争が流れていた。
ましてや名もない田舎の、自然環境がどうの景観がどうのということは顧みられることはなかった。
琵琶湖の周りにも観光道路が通され、コンクリートの橋が架けられた。ひなびた舟着き場は立派な港に変身し、川では護岸工事が進んだ。しっとりとした水辺の風景は、あのころ多くが失われた。
もしそういった風景がお望みなら、英国のなんとか地方に行けばいいという世の中になった。もちろん成田から、である。
写真は浅野竹二という画家の木版画である。この人のことはよく知らなかったのだが、1900年(明治33年)京都生まれとあり、木版画の世界では随分知られた人らしい。
作品はむかしの湖の舟着き場の風景である。場所の特定はできないが、おそらく琵琶湖のどこかでスケッチをして、持ち帰り版画にしたのだろう。作風からすると、おそらく昭和の初めごろの作品だと思われる。
子どものころはこういう入江が、まだ琵琶湖のあちこちにあった。よく魚釣りをした。終日こんなところで遊び暮らしたのだ。
なつかしすぎる風景ではあるが、そんなぼくの感傷を措いてもなお魅力的な作品であることに変わりはない。ちょっとアンリ・ルソーを思わせる。
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