群馬に越して来て20年が経った。で、工房も20周年ということになる。
そういうことにあまり頓着しない性格なので、実のところ何年に始めたのか、よく覚えていなかった。必要があってプロフィールを書くときは、調べもせずに「95年工房開設」などと適当に書いていた。
そしたら昨年暮れに引っ越しをした時、押入れの中を整理していたら、転居のお知らせというハガキが出てきた。群馬に来たときつくったもので、最初に住んだ町営住宅を僕がペンで描いたイラストが入っている。まだパソコンもプリンターもなかった時代、印刷は確か親戚のS印刷さんに頼んだものだ。
そのハガキに1994年4月の日付があり、ああ20年かと思ったわけである。
群馬に来る前は、川崎市多摩区というところに借家をしていた。
東京の訓練校で木工を一年勉強したあと、神奈川にある工房に勤めだして丸3年、そろそろ独立を考えていた。
工房を持つとしても、東京や神奈川では家賃が高くて無理なのはわかっていたので、どこか地方で探さねばと、休日に車であっちこっち出かけた。山梨や長野の田舎を、工房になりそうな建物を探してドライブした。それも不動産屋さんに出ているような正規の貸し物件じゃなく、農家の物置小屋か廃屋みたいなところがあれば、それを改造して、などと考えていた気がする。
しかし知らない土地にいきなり出かけて行って探すのは、いくらなんでも無理があった。
たとえそれらしき建物が田畑の中にあったとしても、空いているのやら使っているのやら、貸す気があるかないのか、そもそも誰が持ち主かなんて、何ひとつ分からない。いかにも行き当たりばったりだった。
群馬は女房が高崎の出身だったから、それまでも時々来ていたし、他県よりは多少土地勘があった。
実家があるのだから最初から群馬でさがせばよかったものを、そうしなかったのは、気持ちとして親に頼るのが面白くなかったからである。
とくに女房は若いころ親に反発していたので、いまさら実家の世話にはなりたくない、ちょっと距離を置きたいと、そのころ考えていたのだと思う。僕は僕で、若者特有の尖がったところがまだ残っていて(いまは別人のように丸い)、愛相がなくとっつきにくい義父と、まともに話をしなかった。
西の端の下仁田町から妙義町、それから富岡市から甘楽町とわずかに傾斜する国道を東に下ってきた。
何の当てもないので、とりあえず役場の窓口に行って事情を話すのである。
「家具作りを始めようと考えているのですが、どこか工房にするような建物を紹介してもらえないでしょうか」。
たいていは、「役場ではそういった紹介はやっていないので」、門前払いなのだが、甘楽町は課長さんにつないでくれて、課長さんから職員のMさんを紹介してもらった。
僕よりは一回りぐらい歳上のMさん、役場の仕事ではやれないけど、個人的に当たってみて、候補が見つかったらまた連絡をくれるという。
それから二度か三度、休日に川崎から来て、いくつか建物を見せてもらった。
そんな中で最後に案内されたところは、Mさんの出身地区にあり、大家さんもよく知っていると人だという。かつての稚蚕の飼育小屋で、いまは農機具をすこし置いているが、ほとんど使ってないらしい。
さいしょ大家さんがいなくて中に入れず、捜したら近くの畑から駆けてきて鍵を開けてくれた。
建物に入った瞬間、ここだって思った。ほとんど理想どおり。
広すぎず狭すぎず、人家からもちょっと離れて、まわりの景色もいいし、家賃もそこそこ。建物にもどこか趣がある。
天窓からの光が、木造のかろやかな小屋組みを抜けて、コンクリートのタタキに降りそそいでいた。念ずれば現ずだと、女房は難しいことを言った。
もう即決で決めて、そしたらいま建築中の町営住宅があるから、そっちも回ってみるかいとMさん。入居できるかどうかは抽選なんだけど、なんとかやってみましょうと。
決まるときは一気に決まるものである。引っ越しは4月だった。
それから20年経った。
先日のこと、改修工事が終わって、新しくオープンした甘楽町の道の駅で友達夫妻とお昼を食べた。夫妻と道の駅でときどきご飯を食べるのは、最近の楽しみのひとつ。ピザを注文し、焼き上がりを待っていたら、たまたまMさんが店に現れた。仕事中らしくスーツ姿で、やはりピザを頼み、テイクアウトするらしかった。
しばらくですねと挨拶に行き、先日もパーティーでお見かけしました、などと短い話をした。
そしてこっちの席に戻って、ピザを待つMさんの横顔を、見るとはなしにぼんやり見ていた。
「ぜんぜん変わってないなMさん」。そう思ったら、一瞬ふうっと、20年前の昔に吸い寄せられる気がした。
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