甘楽町で家具作りを始めたころから、仕事で出るノコくずやカンナくずは、近くの畑にある堆肥場に捨てさせてもらっている。木くずも他のものと混ぜて山に盛っておくと発酵し、やがて堆肥に変わるのだ。
その堆肥場の隅に、いまクルミの木が青々と葉を広げている。
このあたりではクルミを植える家を見ないから、自然に生えたものだろうと思う。
最初ここへ来た頃は、まだ背丈をちょっと超えたぐらいだった。
それがいまでは、傍の電柱を追い越しそうな勢いである。
山の木と違って平地の木の成長は早いもので、あるとき気がつくともう仰ぎ見るほどの高さになっていて驚かされる。
密生した葉のあいだには、ところどころ若草色の実をつけていて、それが風に吹かれて落ちたのだろう、木陰にいくつも転がっている。
オニグルミは僕の使う木の中でも、クリと並んで多くて、好きな木のひとつである。以前は、原木市場でいいものがあると買っていたのだが、最近オニクルミはめったに出てこなくなった。
それと、クルミの実(種)から搾ったクルミ油は、テーブル天板のメンテナンス用などに使っている。
クルミ油は国産品にはないようで、ネットで注文するとフランスからの輸入品が届く。100%純正で食用とあるから、フランスではパンやサラダにかけて使うのかしらと想像している。淡い褐色の油で、なかなか香ばしい匂いがする。
先日近くの山歩きをしたとき、登山道にやはりクルミの大木があった。
それを見あげていたら連れ合いが、クルミの実は野生動物の食料になるのかと聞く。
どうだろう。
秋になって実が落ちれば、外皮はやがて腐ってなくなる。としても、中のあの堅い殻を、リスやタヌキが割れるだろうか。
よほど丈夫な歯と強靭なアゴがないと、難しいに違いない。人間が使うクルミ割りの道具にしても、ペンチを大きくしたような金属製のものである。
ひょっとして、熊なら割れるかもしれない。
でも殻が割れたところで、ドングリや栗と比べ中の実の部分はわずかだ。
しかも売り物みたいに、きれいに実だけ取り出せるわけじゃない。きっと殻のかけらが混じっているから、食べても口の中でガリっガリっと歯にあたるだろう。食感がすこぶる悪い。
苦労のわりに報われるところが少ないので、熊だってそんな面倒なことやらないんじゃないかと、これはぼくの想像である。
子供のころ、家の前を流れる川の土手にクルミの木があった。
秋になると大量の実を落とすのだが、それを拾って食べることはなかった。
落ちた外皮が腐って汚らしく、触る気もしなかったからである。
ましてそこから実を取り出しきれいに洗うなんて、子供には面倒すぎる。もっといい方法があったのだ。
ぼくの家は琵琶湖のほとりから、ほんの5分ほどのところにあって、子供のころは琵琶湖が遊び場だった。
水際の砂浜には、いろんなものが流れ着いた。
流木、ヨシ(葦)、漁具、死んだ魚、プラごみなどなど。そんなものと一緒にクルミも流れ着いた。
どこかの川辺で実を落としたのが、増水のとき琵琶湖に流され、波間をゆらゆらと運ばれてきたのだろう。砂浜に上がるころには、外皮はすっかり剥がれ落ち、きれいなクルミになっていた。殻が固く閉じているから水は中まで入らないらしく、食べるのは何の問題もない。
浜辺をしばらく歩くと、10個ぐらいはすぐ見つかった。
それを拾って帰って、物置から金づちを持ち出し、石の上で割るのである。(何だか縄文時代の採集生活みたい。)
クルミは無造作に割ろうとすると、ぐしゃっと中身ごとつぶれてしまう。
そうなると、食べるのが大変、あとで堅い殻のかけらを噛むことになる。
殻の合わせ目が上にくるように石の上に置いて、そこをめがけて一撃を加えれば、殻はきれいにふた手に割れる。
しかし毎回そう上手くいくとは限らない。
首尾よく殻がきれいに割れて、実が粉々にならずに大きいまま取り出せたときは、ご満悦だった。そんな気がする。
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